ベトナム平和ツアー2014年 農村交流
ベトナム農村交流に参加した!
鎌田 隆(沖縄国際大学名誉教授)
はじめに
今回の旅程をつくるコンセプトとして、前回の2012年平和ツアーとの重複は避けるが、重要な箇所は何度でも行くということで、前回のクチ地下トンネルからカンザーのマグローブ林に変更する一方で戦争証跡博物館とツーズー病院は変更なく組み込んだ。また、文化面と経済面のプランとして、民族学博物館、水上人形劇、農村訪問を取り入れた。
これによって、① マングローブ林→戦争証跡博物館→ツーズー病院を回ることで、枯葉剤被害を系統的に学べた、②農村交流の芽だしができた、③福島からの報告を期待できた。ただ、②③が前半ハノイ市であったことが、大雪で「ゆきどまり?(駄洒落)」で日本で足止めを喰った福島組のみなさんのみならずツアー全体にとって大きな打撃であった。
今回の大きな課題を、①前半の農村交流・報告会と ②後半のベトナム戦争とくに枯葉剤被害(カンザー・戦争証跡博物館・ツーズー病院)として掲げた。
農民との交流・交換
筆者にとってのベトナム農村調査は2回目であった。第1回目は、2003年8月の南部メコンデルタのチャンジャン省ゴコドン県タンニャット村ビンタイ農業合作社での聴き取り調査であった(詳細は、拙著『ベトナムの可能性』2006年4月シイーム出版)。
ベトナムでは、1975年ベトナム解放後南ベトナムでも一挙に農業集団化が実施され、行き詰まり、それが直接的要因となり、ドイモイ政策が開始された。
大多数の合作社が解体されるなかで、上記合作社では、ドイモイ政策以後も良好な実績を挙げ残存する合作社であった。それでも、生産・供給・消費の全面にわたる協同化ではなく、生産手段の供給や生産物の供出で市場経済化された関係で、資本主義的企業を仲介するものであり、ドイモイの成果を踏まえて協同化された農業合作社として好結果を示していた。
筆者にとっての2回目の今回は、農業調査というよりは、農民との交流という側面が強かった。だが、農村訪問については、旅程作成の初期の段階からその要求は大きかった。
それには、第一の課題は、2010年おきなわ・ベトナム祭りのシンポジウムで来沖した、故桜井由躬雄東京大学名誉教授の影響が強かった。「昔、石垣島にアンナンという国の兄妹が稲の種をもって稲を教えた」「・・・西表島に・・・ニライカナイから渡来し、人々に稲を教えた・・・」というように、沖縄・日本への稲作伝承起源がアンナン(仏領インドシナ中北部)であったこと、水田の「耕起」に「蹄耕」「踏耕」などの東南アジア伝承の耕法が八重山にあった(いずれも桜井由躬雄『緑色の手帳』)、日本の稲作のルーツとしてのベトナム農業との交流への要求が強かったこと、
第二の課題は、沖縄・福島から農業関係者が参加して、日本農業とベトナム農業の歴史と課題、農業技術の交換など専門的な内容まで踏み込んでいけるという願望があった。
例えば、①現今のベトナムでは主に自家用や富裕層・日本人向けに限定され未発達な、無農薬など有機農業について、②固有種農業(地場の伝統的種子での農作物栽培)について、一つは、日本の農家が技術指導・協力することがないか、二つに、たとえば、有機農法にしても基準を設定して認可取得を支援する態勢づくり、三つに、米作における土作りなど農業技術の交流・交換をともに考える。
第三の課題は、ベトナムにおける農業合作社の経験・課題と日本における農業協同化の現状の意見交換、などなど、日本・ベトナム共通の課題への意見交換と支援態勢を創出する。
第四の課題は、ベトナム特有の「農村から析出される労働力が共同体から離脱し得ない『離農不離郷』(前記桜井由美雄)」、すなわち、農業を離れても農村に居続けるという
ベトナム独自の状況の実態を実際に確かめたい。
さらに第五の課題は、③近年のベトナムでの農地破壊やWTO加盟などによる食糧自給率の低下の傾向について、日本の戦後高度成長下の農業の衰退の実情からの問題指摘や対策を提案する。
以上のような農村調査に際しての課題整理を、沖縄で提案し話し合った。
ドンアインの農家で
今回の農村訪問は、ハノイ市の近郊農村であるドンアイン地区農村である。
バスは、幹道に停車して、それからは農道・畦道を進んだ。ちょうど紅河の水郷で豊かな水に囲まれた佇まいの農家の中庭に案内された。いわゆる「農業合作社」ではなく、個人農家の小さなグループのようである。
庭の左右は池、正面の作業小屋・住居の背面は水田である。池には数百羽の家鴨が群れている。リーダーらしき農夫とその息子やその他10名ばかりの農民や子どもたちが応対してくれた。
筆者からの挨拶と、訪問の趣旨説明では、上記のような当方の課題意識を披露した。しかし、春の大雪によって未だ到着できない福島の農業関係者と、沖縄側も準備不足・打合せ不足があり、上記問題提起に続く「二の矢」が出ないし、相手側からの回答も望むべくもない。
農村調査の前提としての、農業経営形態、協同化の程度、農家数、農業従事者数、生産物の種類、生産額、農業収入、「ドイモイ」政策の成果・課題と展望など基礎的な事項・数字すら聴きだせなかった。これは、問題提起した筆者の責任として深く反省している。
ついには、堅い議論はさておきという雰囲気から、家屋の向こう側の水田で、二期作の最初の田植えの現場を観た。耕作面積は日本と変わらない小規模な田んぼが続いている。区画ごとに2・3人のユイマールのような関係?の「早乙女」たちが、今では日本では珍しくなった手植えをしている。
夕間暮れの畦道で、参加者はそれぞれ質問をしている。筆者がリーダーの息子に「後継者はいるか」と尋ねたら、「自分の息子はもう農家は継がない」「六代目で途切れる」という。このハノイの近郊農村にまで都市化が押し寄せ、離農傾向が増えているのかと暗澹たる気持ちになった。あとは、全部自前の食材による料理に地酒の交歓会が始まった。当方からは台湾で買った洋酒をプレゼントした。女性の参加者は農家の女性たちと記念写真である。時あたかも(暦をみれば)如月の十六夜の月、「田毎の月」なんて今では使わなくなった季語を思い出していた。
議論は決して深まらなかったが、白い月に照らされた墨絵のような幻想的なひとときであった。沖縄側は、これは準備万全の「芭蕉布」の二部合唱、最後は、子どもたちも輪に加わっての「カチャーシー」で座は最高に盛り上がった。
私の前回の農村調査は、筆者個人と専門知識をもつ通訳との調査であった。この日は、農村との出逢い、交歓会・交流会であって、調査や経験・技術の交流は次の段階であると割り切ったら、成果を誇ることができるであろう。沖縄・福島側もベトナム側も再会を期する雰囲気は出来た。福島の農業関係者は、農業技術の交換のための資料も報告の準備もできていた。福島側の稲田提供による農業を通した福島・沖縄の交流が始まった。沖縄側参加者は8月から農業研究会を立ち上げ、次の機会に備える。
白い月に照らされて帰りに着く沖縄・福島の参加者と見送るベトナム側の農民たちの影絵のような姿が畦道に続く、再会を期して・・・。