安田純治さんと行くベトナム平和ツァーに参加して
福島県伊達市 橘 三郎(56歳)
出発日の2月15日は東北、関東地方を中心に記録的な大雪に見舞われ予定便に乗れない大ハプニング(難産の末、翌日便で出発)、私にとってもトラブルの連続でしたが、意義深いとても楽しい旅でした。
初日予定の農村交流会には参加できず残念でしたが、2日目ハノイでの安田代表の福島原発事故についての講演は、被災地の生の声をベトナムの方々に届ける大変良い機会だったと思います。(現在のベトナム政府は原発推進の立場)。
3日目ホーチミン市近郊ガンザー地区の大マングローブ林見学はNGOで働く日本人の案内で大きな河川を行く船旅でした。サイゴン川下流域の広大な湿地帯にあり、その面積(7万5千ヘクタール〈10㎞×40㎞〉)と緑の豊かさは正に圧巻でした。この地がかってのベトナム戦争時にアメリカ軍の枯葉剤により全滅したとのこと。非人道的蛮行に強い憤りを感じました。戦後、現地の皆さんの気概と努力で見事に復元され、2,000年にベトナム最初の世界自然遺産に指定・この偉大な事業に只々感動し敬服しました。
4日目午前ベトナム戦争証跡博物館の見学、その後館長や戦争体験者の大変苦労したお話を伺い、特に元女性兵士が受けた拷問は悲惨で後遺症もあり、片足を引きずりながら歩く姿に思わず込み上げてきました。午後はツーズー病院付属の平和村訪問、院長やドク氏(ベトちゃんドクちゃんはその兄弟の愛称)との面談に臨みました。枯葉剤の被害者は300万人以上、戦後40年過ぎても2世代3世代と今なお被害に苦しむ人達が多勢いるそうです。この施設にも60数名の子供たちが入所していました。一室にはホルマリン漬けの生後間もない奇形児の標本が置かれ、想像を絶する光景を目の当たりにしました。1,980年代~最近では2,010年のものもありました。同行のある人が言っていました「一見元どおりに甦ったマングローブ林だが、実は何も解決していない!」アメリカは枯葉剤との因果関係を未だに認めようとしていません。今回初めて訪れたベトナムの印象は、インフラ整備や経済面でもまだまだ遅れているし農村の風景も日本の30~50年前(牛で田んぼを耕し、手で田植えをしていた)といった感じでした。しかし都会では若者たちが活気に満ち溢れ道路はバイクの群・群・群(中には子供2人と夫婦4人乗り)、不思議なことに老人の姿はほとんど見られませんでした。(ベトナム総人口9,000万人の8割は40歳未満・平均年齢29歳)これから10年、20年後ベトナムがどれほど変化し発展していくのか非常に楽しみでもあり、逆に一抹の不安も感じました。最後の夜はツァー参加者と交流、皆で腕を組み自由ベトナム行進曲を合唱、尽きない思いを抱きながら深夜のホーチミン空港を後に帰国の途に就きました。
尚私事ですがハノイ及びホーチミン市の友好協会や戦争証跡博物館に於いて、ベトナムの人達やツァー参加者の皆さんに私の尺八演奏を聴いて頂きとても嬉しく幸せでした。今回沖縄・福島からそれぞれ15名、全体で30名のツァーでしたが沖縄の方々のバイタリティーさには大変刺激を受けました。また機会がありましたら是非参加したいと思います。
「ベトナム・オキナワ・フクシマの連帯万歳」
福島県福島市 後藤 勝彦(72歳)
「安田純治さんと行くベトナム平和ツァー」では、30名の参加者の全員が、ベトナムの仲間との友好・連帯の旅に、深い楽しい感動を胸に帰国したことと思います。とくに福島の仲間15名は大雪のため2月15日18時のベトナム便に1時間遅れのため翌16日の出発となり、困難な中のスタートとなりましたが、80歳を超える安田純治先生を先頭に元気に福島に帰着しました。この企画を担当した者の一人として今回のベトナム平和ツァーに参加した皆さんに心から感謝したいと思います。
2月18日の「しんぶん赤旗」紙には「ベトナムの首都ハノイで『東日本大震災報告会』で安田純治弁護士が東京電力福島第一発電所の過酷事故について報告」と報じました。
今回のツァーの目的の一つは「ベトナム人民の福島支援のお礼と東日本大震災と福島県の現状報告」であり、これを取材したハノイ駐在の赤旗記者は「ベトナムでこのような原発の現状報告が行われたことは画期的」と感想を述べていたとの事です。また、ベトナムの文学者から「福島の友人へ」と俳句と詩が寄せられたことは参加者に大きな感動を与えました。ツァーを企画された沖縄・ベトナム友好協会など実行委員会により実現したベトナム平和ツァー。また、沖縄・福島の30名の仲間の参加者の友好連帯の熱い思いで成功した平和ツァーはこれからのベトナム・オキナワ・フクシマの友好運動にとって画期的なものとなったと思います。また、今回安田先生の「報告文」を翻訳したグュエン・ド・アン・ニェンさんにも心から感謝いたします。
今回のツァーでお世話になったベトナムの仲間の皆さん、沖縄と福島の仲間の皆さんに感謝を込めて。
俳句集 「メコン河」
後藤 蕉村(勝彦)
マングローブの緑の宇宙やメコン河(1)
大雪を踏みわけ踏みわけベトナムの空へ
「コケコッコー」とフクシマ連帯の朝ぼらけ
安田さんのこぼれる微笑やホーチミンの眼
アメリカを打ち払う意志やベトコンマフラー
ベトナムやバイクの大河アオザイの娘
メコンに良く来ましたねマングローブの森
連帯の朝日ゆっくり昇るメコン河
スクラム強し福島と沖縄を返せの ホーチミン
ドクちゃんコ・コエ・コン ツーズー病院の春(2)
シンタムビエット ホルマリンの子がつぶやいて(3)
(2)コ・コエ・コンはお元気ですかの意のベトナム語
(3)シンタムビエットはさようならの意のベトナム語
ベトナム平和ツァーに参加して
千葉県鎌ケ谷市 菅野 雅樹(67歳)
私の青春時代はアメリカのベトナム侵略戦争反対、ベトナム人民支援、連帯に毎日集会やデモが繰り返し行われていました。今回その後のベトナムの現実をこの目で見届けるために参加しました。日本政府がベトナムへの原発輸出をもくろんでいる中「震災報告会」で原発は安全でなく予想される大事故や必ず来る大事故40年後の廃炉の費用を含める決して安全ではない。「国民の生命と健康への被害が計り知れない」・・・ 福島原発事故の体験を踏まえての原発の問題点を指摘したのは大変有意義な報告会(懇談会)でありました。
ガンザーの大マングローブ林(旧解放戦線基地)はベトコンの拠点に大量の枯葉剤を散布し皆殺し作戦をくわだてたが、ベトナム人民は負けないで解放を勝ち取ったところを小舟で廻り考え深く見回りました。ツーズー病院、平和村では米国が散布した枯葉剤被害者の標本室にはホルマリン漬けのあらゆる奇形の赤ん坊が・・・・大ショックを受けましたが、そばには各国からのボランティアの女性たちが介護にあったっている。笑顔が印象的で涙が出ます。
ベトナム戦争がいまだ終わらず枯葉剤の不外車が現在も続いていることに怒りを感じています。
6日間を通してベトナムの人達は非常に明るい(特に女性は)次回も機会があれば参加したいと思います。おきなわの皆さん、福島の皆さん、大変お世話になりました。ありがとうございました。
安田純治さんと行く、ベトナム平和ツアーに参加して
福島県国見町 木戸 雅子(73歳)
ベトナム行きを決めたのは観光ではなく、主に沖縄の方々及びベトナムの方々と交流ができ多くのことを学べると考えたからです。
ベトナムは今ではもう遠い日となった青春時代、ベトナム戦争反対の闘いに燃えていた頃の思いでの中にあり、過去のことと思っていたが、今回の旅でベトナムのの現実に触れ、特に平和村(ツーズー病院)で出会った子供たちを通して、戦争の傷跡の深さにショックを受け、現在も進行している現実に、どう関わったら良いか考えさせられました。 マンゴローブの森が枯葉剤で汚染され、そこで生活していた人々を傷つけ、エンゼルベイビーやシャム双生児・無能児など、いろいろな欠陥が生じて、どれだけの子供たちがこの世に生を受けず逝ってしまったか、どれだけの親たちを泣かせて来たか、その罪深さに怒らずにはいられません。
その反面、マングローブの再生した森の緑は清々しく川面を吹く風の気持ち良さはこの上もない。自然の回復力に感動し、人間が少し手を貸してあげれば、素晴らしい環境ができる事を実感しました。
そして、福島双相地区の人の消えた町では、人の手が入らなくなった田畑や庭はたちまち原野化し動物たちは活発に自分のエリアを作ってしまう。そんなことをぼんやりと考えていました。
今回の旅は「戦争証跡記念博物館」の壁に掛けられてた一枚の絵や写真からアメリカがベトナムで行った戦争の非道さに怒りを禁じ得えませんでした。
過去の事は終わった事にせず過去にあった現実を語り継ぐ大切さを今回のベトナムを旅して、また、思いを新たにしました。
もう少し沖縄の方々と話をしたかったし福島の現状を伝えたかったが、そんなに欲張らず何処かでそうした機会が出来ればと思いました。
御一緒した皆様、ありがとうございました。それにしても稀にみる大雪の中トラブルをものともせず、この旅行を実現されるために四苦八苦して頑張ってくれた後藤さんの粘り強さに雑帽・感謝・感謝、後藤さんにカンパイーです。本当に有難うございました。
黒森君のベトナム紀行
福島県福島市 黒森道夫(80歳)
元気なうちに一度はベトナムと云う国に行ってみたいと思っていた。それが幸いかな夢が実現した。
季節は大雪で動けなかった2月の15日、間隙を縫ってどうにか福島を脱出して成田からハノイに飛んだ。 この旅には目的があった、3年前の震災に対する救援のお礼と、原子力発電は生物にどの影響があるのかという、お礼と報告を兼ねた現地との交流会である。
交流会の時間が短く挨拶をを交わしたことしか僕の脳裏には残っていない。
ハノイには半日で、午後にはホーチミンに移動した。
あくる日どうにか観光かなと云える時間がとれる、町から少し離れた植林をしてるところに行く。しかし目的地まで行くにしても簡単ではない。道路がない。小さな船に人と車を(バイクもいっぱい)積んで川の向こうに行く。川といっても幅が広い100m単位ではない2kmもあると思われる。そのようなところなので川と云うより海に囲まれた陸地のようだ。その川をさか上ったのか、下ったのかわからないようなところを船で移動する低い木の林を中を時には歩き、時には船で南国のデルタ地帯を眺めて歩く。そして現地に在住し植林している日本人が云うにはマングローブという特定の植物はないという。熱帯地方に生息している木というか植物全体をさしてマングローブと云うのだと、教えられる。このマングローブの林の散策はとても静かでいつまでもじっとしていたい心地だった。
この静けさから再びホーチミン市の雑踏のなかに戻り町の中に目を転じればそこは現実を見なければ理解出来ないような、賑やかさ(ルールなきがごとき)人の往来である。その中でも特に多いのがバイクを走らせる若者たちの姿であった。それにもう一つ気になることがあった。それは市中に張られた、電話線の数である。これは後で解説することにする。 この若いベトナムがこれから何年か後に想像もつかぬ発展が有る事を思って短期日の訪問を閉じることにする。
ベトナム平和ツアーに参加して
福島県伊達市 堀江 泰幹 (74歳)
ベトナム行き、行きも帰りも雪の朝
初日(15日)の大雪に交通がマヒし定刻のフライトには乗れなかったのが、一番残念なことでした。そのために計画の第1日目の日程が全滅で、僕が一番期待していた農村の皆さんとの交流が出来なかった事です。
2日目のハノイでのベトナム高官との交流は、安田団長のお話で終わってしまった。先方のお話がよく聞き取れなかったのが残念でした。また、こちらから行った人(団長以外)の話があの場で出来れば良かったと思いました。時間との関係で無理だったのかもしれませんが、もう少しそんな雰囲気になればと思うと残念だったと思いました。
ホーチミン市への移動はフライトでしたが、2時間もかかるとは思いませんでした。市内での見学は、教会の大聖堂、郵便局いずれもフランス領時代の建築で当時を垣間見ることが出来ました。
また、道路の状況は、バイクの洪水のようで、よくもまあ事故が起きないものだと感心致しましたし信号の少なさにも驚きました。
3日目は、ホーチミン郊外のメコンデルタ地帯のカンザーのマングローブ(動物、植物、緑の肺、生物多様性の維持)4,000ヘクタール以上の原生林である。ここが二度にわたる戦争で数百万リットルの枯葉剤や爆弾で、壊滅したといわれるが、「ここが枯葉剤で森林が無くなったとは・・・」考えられない。見事な森林に変わっており、驚きと感動で一杯でした。政府の環境保全にかける意気込みを感じました。そして、この地帯が戦争の時のベトナム解放軍のゲリラ部隊の住み家であった事も枯葉剤の攻撃の的になったということも伺い知ることが出来ました。この枯葉剤での被害者数は4,000万人とのお話でした。よくもまあこうした土地で、あのアメリカの近代兵器に屈せず戦えたものだと思いました。
4日目、ホーチミン市の友好団体との交流会が戦争証跡博物館でありましたが、博物館の写真資料を見ての後だったので、とても印象に残りました。特に戦争を体験した女性の方、ベトナム兵士として15歳の時からアメリカ軍と戦った80歳の元兵士の方、最後の別れの時2人で抱き合いましたが、ギターを弾き歌を歌う姿に大きな力を貰いました。
最後は、枯葉剤による障害者を観るツーズー病院でした。双子で生まれたベトちゃんドクちゃん(ベトちゃん死亡)に会うことが出来、しかも元気で病院で2人の父として働いていた事に深い感銘を受けました。
戦後、40年も過ぎても枯葉剤の影響で苦しんでいる人が病院に何人も、しかも33歳の人もいることに衝撃を覚えました。別室にはホルマリン漬けの胎児の標本が並べられてありましたが、おおよそ想像もつかない姿に唖然としました。説明を見ると2,008年のものもあり、2世代、3世代にまで影響があることを証明しています。
以上が、見てきた感想ですが、福島の原発事故と重ね合わせて考えてみるのに大いに役立てて行くべきところと考えています。