2011年8月ベトナム学術平和の旅
4. 友好を温める夕
夕食は、去る8月10日の沖縄・ベトナム友好協会創立20周年に合わせて来沖した、ベトナム各国友好協会連合会長Vu Xuan Hong氏招待の晩餐会である。筆者のために準備してくれたレストランはかつてはイギリス人の経営であったといわれる瀟洒というか小粋な感じのあまり大きくない店である。午前中面談したシャトーヒルズの安里社長、Hong氏の側近の連合会アジアアフリカ地域担当者Nguyen Van My氏も同席した。次々に運ばれるコース料理に追いつかないままに、Hong氏の沖縄土産話が続く。同氏の沖縄に対する高評価の証しか、乾杯が何回も繰り返される。17年前からの久方ぶりの訪日は、国会議員でもあるHong氏の多忙な日程のなかで沖縄に合わせてのものであった。今後は毎年行くとの約束まで出た。筆者からは、日本とベトナムの学術・平和交流についての支援を要請し、Hong氏は300名収容の会場の提供などを約した。安里氏からはベトナム人従業員とのテト前夜の飲み会や趣味の油絵の話が出る。終始笑いが出る。Hong氏の片言の日本語が飛び出す、何かハイソサイテー?な友好親善の夜が更け、筆者は会長車で宿舎まで送られた。明日は東京組との合流である。(写真5)
5. フランスの残した犯罪の証し
8月20日(土)
最初、筆者には事情が掴めなかった。あまりにもきれい過ぎる。派手な黄色の壁の入り口の背後に、高層のハノイタワーという高級マンションが控えている。しかし、入場券を買って内部に入ると気持ちが一変した。
ここは、ホアロー収容所、1887年から1954年まで続いた仏領インドシナ、そのフランス支配に抵抗し祖国の自由と独立を求めるベトナム人を投獄し拷問し、死に追いやった忌まわしいこの刑務所は、1896年に造られた。当時の敷地の後ろ3分の2はハノイタワーなどが入った高層ビルに変貌したが、残された部分でも十分に、その忌まわしさを伺うことができる。
ある部屋は、座禅道場のように壁に背を向けて横一列になった人々が両側に並びそのすべてが足枷で拘束されている。またある部屋ではまるで梯子の一部分に首を挟まれた形で自由を奪われている。ある部屋は女囚のため、また子どものいる母親のため、また、独房の続く暗く狭い廊下も・・・。フランス革命時登場したギロチン(断頭台)は思いの外、背が高い。
外壁のレリーフが当時のフランスによる拷問とそれに抵抗するベトナム人収容者のありさまを示している。1954年フランス撤退後はベトナム政府に移管されたが、このホアロー収容所は、フランスが一時期アジアに残した絶対忘れてはならない歴史上の一大汚点を示すものとして、末代まで引き継がれていくべきものであろう。(写真6)
6. ハノイ観光のはじまり
午後、ホテルで東京組と合流した。明治大学・千葉商科大学の教員など4名である。
最初の日程は、民族博物館、続いて水上人形劇である。土曜・日曜日は公的機関は休業、こうした観光地しかない。
ベトナムは8,000万人人口ながらベトナムは54という多民族国家である。この博物館は、そうした種々の民族の特性、民俗、習慣、生活、衣食住、民具などを紹介し、屋外では実寸の高床式など様々な民家が立ち並ぶ、子どもたちにもやさしく理解できることで地味ながら人気のある博物館である。
ついで、ホアンキエム湖畔にある水上人形劇場に入った。筆者はこの数回は、人形より囃子方の方に関心をもって鑑賞している。一弦琴や太鼓など民族楽器、また、甲高い声の台詞で物語を進める係などあたかもオーケストラによる交響詩のようで興味深い。人形の動きには依然と大した変化はなかったが、終幕で、これまでは人形使いが舞台に現れて人形の操り方の種明かしをしていたのが、今回の人形師自体が登場人物となって表で出てくる演出はあまり感心しなかった。
ベトナムの水上人形劇(Roi Nuoc)は、9世紀中国宋代の「水傀儡」の流れを汲むもので、12世紀以前に紅河デルタの稲作地帯で演じられていたものである。現在、この劇場のような定席の外にも、農村の池で行われる伝統的なものもある。この劇場はいつ来ても満席、エピローグで観客が西の人も東の人も一緒になって拍手する光景は、ベトナムを代表する出し物になったという感を強める。
夕食は、ちょっと豪華なベトナム料理と酒で最初の夜を過ごした。
外国(とつくに)の酒に浸りし夏の夕
7. ホーチミン詣で
8月21日(日)
今日は日曜日で余裕があるなんて思っていたら、予ねてから要請していた件が2件突然日程に入り込んできて多忙な1日になりそうである。その一つは、折角大学教員が揃って訪越するのだから、全員でミニ連続講座を開講しようという話が6月にハノイで出て、先生方全員の了解は得られた。問題は受け入れ側の問題が二転三転してなかなか決まらない。
当初は、ハノイ市越日友好協会会長を経てハノイ国家大学で開こうという話であったが、ちょうど夏期休暇・入学試験で対応できない。
折から沖縄へ市場調査にきていたベトナム社会科学院一行のうちの経済研究所長Tran DinhThien氏に直談判したら、ハノイ国立大学は自然科学系が中心でしかも夏期休暇・入学試験で対応できないであろう、私(社会科学院経済研究所)が引き受けようということで、日程・講師・テーマ・時間などを詳細に送った。結局、こちらも多忙で無理ということになったが、この件についてベトナム友好協会連合会Hong会長が全部対応し、社会科学院経済研究所の方は、午後3時から研究所に赴いて対談することになった。
という訳で、早朝8時からのホーチミン廟など見学、10時からの友好協会連合会での講演会、午後3時からの経済研究所での面談とタイトな日程と相成った。定番のホーチミン廟その他は、折からの雨中の駆け足詣でとなって参加者から多少の不満が残った。
ホテルを出る頃からの雨が本降りになって、ホーチミン廟に至る通路は、参拝?するベトナム各地からのお上りさんや外国からの観光客が傘をさして列をつくっている。衛兵が起立して玄関を固める。外で待つガイドさんにカメラを預けたので廟以外も含め写真は撮れなかった。
傘もカメラもダメ、金属探知機を通過して、ホーチミンの遺体の眠る廟に入る。寒い位の冷房完備である。仲間の一人が立ち止って手を合わせようとして注意された。立ち止りも会話もダメである。
1975年9月2日、2年間かけて完成したこのホーチミン廟は衛兵の監視した冷房の効いたコンクリートむき出しの部屋の中央にガラスケースの中に、特殊薬品で保存されたホーチミンが眠っている。生前自己顕示的行動を慎んでいたホーチミンは、自らの死後には、火葬後のベトナム北中南部への分骨を希望し、このような形の保存は本人の望んでいたことは異なる。
ともあれ息も詰まるような緊張の廟を出て、一柱寺、ホーチミンの生家、ホーチミン博物館のコースは、単なる個人崇拝とは異なるといわれながら多くの国民や全世界の人々の尊敬を受けるホーチミンを奉る観光コースであるが、次の予定がありみんな文字通りの駆け足で通過した。
第2回 学術交流の実を挙げた
8. 盛会であった講演会
会場に着いて当の本人たちが驚いた。各国友好協会連合会の3階講堂には続々聴衆が集まりつつあった。聞かされていた予定では、午前中の連合会で打ち合わせ、午後の社会科学院で講演会であったはずだが・・・。
事情が分からないままに、Nghiem Vu Khai越日友好協会会長と講演者の明治大学商学部福田邦夫氏と筆者と通訳者が、議長席に着席した。ベトナム各界の選ばれた人たちと思われる聴衆はすでに60名に達していた。
筆者は、開会の挨拶として、講演会の組織と動員、会場確保などへの謝礼、当初の全員の連続ミニ講演会から代表者の講演への経緯、日越学術交流の第一歩としての意義などについて述べた。
以下は、福田邦夫教授の「日本経済の現状」と題する講演の要旨である。
重化学工業を軸にした日本経済の高度成長の過程で、農林漁業は完全に滅亡した。その一方で現時点では、日本のグローバル企業、巨大企業は、生産拠点を日本から中国や東南アジアに移しているため製造業で働く人々も急激に減少している。
戦後半世紀、現在農業従事者は全労働力人口のなかのわずか3%である。しかもその従事者は80歳以上である。日本もベトナム同様に美しい自然があるがそのなかで働いている人はいない。製造業部門で働く人々の数は、1970年で労働力人口中34%、2005年には20%、
2011年で12%である。日本の経済界の指導者は、日本の労働力でなく中国や東南アジアのチープレイバーを使った方が利益が上がると考えている。その結果、政府発表によると現在200万人の人たちが貧困ラインつまり生活できないひとたちであるが。さらに政府が認めていない貧困ライン以下の人々が300万人以上もいる。大企業のCBOの収入と労働者と平均収入を比べると格差が2,000倍以上ある。この格差はどんどん広がって止まるところを知らない。
今、Globilizationというが、それよりもBipolarization(二極分解)、日本の二極分解、地球の二極分解が顕著である。こうした不平等な所得構造・経済構造から、日本で500万人以上の人々が食っていくことができず、一方でこうした一部特権層が今や日本の政治・経済システムを完全にコントロールしている。民主主義国といいながら民主主義そのものも破壊されている。
次に悲しいことであるが、毎日100~150人多い日には200人自殺する。ここ20年間で150万人以上の自殺者が出て尊い命を失っている。自殺は難しい。10人トライして9人まで死ねない。日本では「目に見えない市民戦争(Invisible civil war)」と呼んでいる。
最後に、3月11日に福島で原発が爆発した。日本の政治・企業の指導者、マスコミのすべてが、自己は大して危険ではない、大きな事故ではない、と国民からこの重大な事故を隠し続けている。6月になって初めて、日本政府はメルトダウンを認めた。実に3か月後である。それも嘘である。容器が溶けて破壊したメルトスルーである。未だに放射能を含んだ煙が空高く上がり日本中にまかれている。海にも何百tというセシュウム、ストロンチウムなどの放射能が流されている。北半球でできた野菜、牛肉、牛乳、魚も食べることができないという深刻な事態になろうとしている。福島県とその周辺の農漁業も完全に破壊された。10万人以上の福島県民が県外の全く知らない場所に家族とともに非難している。故郷にはもう100年以上帰ることができない。チェルノヴィリでは原子炉は1基爆発したが福島では3基爆発した。政府や企業は未だに事故を過小評価しているがそれは全くの嘘であって、日本国民は毎日放射能に怯えている。3か月間も政府・東電はメルトダウンを隠し続けて、6月にようやく公表したということを理解して頂きたい。
長崎に落とされた水素爆弾の3個分が同時に爆発して、原子力装置が完全に破壊した、原子炉の火はあと50年も消えないであろうというのが実態である。
日本は高度経済成長を遂げたけれども、最も悪い見本を示していると考える。
まとめとして、第一に、日本は経済成長の陰で、農林漁業が完全に消滅して、自然に生かされているという生活環境そのものが失われている。日本人は、米以外はほとんどアメリカ・中国・オーストラリアなどから輸入して食していること、第二に、製造業の労働者も10%台になって、モノづくりが日本では行われない、日本の企業のほとんどが東南アジアなどの安い労働
力を使って国際競争力をつけるというのが実態である。経団連会長の米倉氏は「日本人労働者を一人雇うよりベトナムの労働者を20人雇う」という。
第三に、日本に原子炉が54基あるが、現在そのほとんどがストップしている。政府・企業は電力不足をいっても日本の経済は原発がなくとも十分に成り立っている。現在国家レベルと企業レベルが結合して、日本が海外に輸出できる最大の利益の上がる製品は何か、アメリカでは航空機・核ミサイル、日本では原子炉であり、国家・企業挙げての最大のビッグビジネスである。
私(福田)の父も被爆して苦しんだ上で死んだ。原爆で死亡したのは15万人だが、原爆投下後30万人もの人々が苦しみながら死んでいった。
日本では使用済み核燃料50万t、青森県に山積みされているが、今それをモンゴルのもって行って捨てようという計画にも我々は反対運動しなければならない。
以上で私の話を終えたい(長くつづく拍手)。
ベトナム日本友好協会Nghiem Vu Khai会長がまとめの言葉を述べ、続いて、フロアとの質疑応答に移った。
ハノイ国立大学教員などから、第1に、人材交流・人材育成の可能性、第2に、原発事故による東日本での農業破壊と越日農業協力、第3に、原発事故以後の日本のエネルギー政策と経済政策の変化などの質問と意見が出た。
これに対して、講演者福田氏は、若いベトナム人学生・研究者の東京での受け入れは直ちにでも可能であること、第2に、原発事故の影響が大きければ、自国生産でなく輸入に頼るのか?というとそうではない。日本の支配層には、日本でつくらなくても外国からの輸入に頼る、日本の商社は中国に膨大な農地を確保して農業生産して逆輸入ということを考えているが、私たちは、日本の農業はできる範囲で自給を目指す方向であり、それとは別に日本とベトナムの農業分野における強力関係は今後重要になるであろうと答えた。
第3に、原発事故があったからといって、直ちに日本のエネルギー戦略が変わるわけではない。現在でも、日本に現存する54基の原子炉のうち10基しか起動していないのであり、原発がなくても日本のエネルギー事情が逼迫する訳ではない。問題は支配政党が脱原発の方向性を出すか否かである。他方で日本には今後、風力・地熱・太陽光・水力・火力などの技術開発の蓄積はある。例えば、イタリア・スペインの太陽光発電装置は全部日本製である、等々。
また、第4に、現在の政権与党下では、原発事故以後も従来の経済政策は続いていくであろう、と述べた。
質疑応答を通してこの講演会の参加者も含めて、一般的に、日本経済の現状と原発に対する認識が乏しく、原発事故や原発そのものに対する警戒心が薄いことが垣間見られた。
筆者は、日本の原発事故の現状をみてもそれでもベトナムは導入しようとしているのか、それについて日本人は危惧を感じている。今回は日越学術交流のほんの第一歩に過ぎない。今後それを発展させていきたい。自然エネルギーの研究交流も可能ではないか、と結んだ。
そのあと、講演者の福田氏、越日友好協会ハイ会長、筆者にそれぞれ花束が贈られ、余興に移った。
そのうちの、ベトナム北部唱歌「Cay Truc Xinh(美しい竹)」とベトナムの国民歌「Nhu co Bac Ho Trong Ngay Vui Dai Thang(大勝利の喜びの日にホーおじさんがもしいてくれたら)」には、日本側から筆者が元ベトナム軍合唱団の合唱に加わった。満場の手拍子で盛り上がったのち、数曲のベトナム歌唱が披露された。
最後は越日友好の雰囲気で終わったのはよかったのか。何か隔靴掻痒の感がする講演会であったが、それだけに、日本の科学者のこうした講演会があってよかったし、今後も繰り返されるべきであったと感じた。(写真7・8)